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八王子の和菓子を楽しもう!(協力:八王子和菓子組合)

八王子の和菓子

写真で見る八王子・和菓子の歴史

明治までの和菓子と八王子

「道中日記腕枕」(文政3年)のさし絵より。<br><新藤恵久所蔵>
「道中日記腕枕」(文政3年)のさし絵より。
<新藤恵久所蔵>
270年前、元禄15年「八王子横山十五宿村鑑」によれば八王子の人口3,448人。街道に菓子商4、餅商2、横町に焼餅、まんじゅう商の記録があり、また塩野適斎の桑都日記、明和6年の記録には、「独り桑都の塩まんじゅうのごときは、三都無比、寒郷一区の名産なり」と激賞「そのうち最も有名なるものは八木宿甚五兵衛なり」とある。
砂糖を使った菓子が八王子にでまわるようになったのは西南戦争(明治10年)頃からで、「今坂、羊かん、いくよ餅」が評判であった(楢本長五郎談)。
明治18年、菓子製造業にとって“爆裂弾”ともいえる、売上の5%をかける菓子税が布告される(明治29年廃止)。
 写真は、明治22年菓子税全廃につき、1府16県代表東京に於いて大会を開き、終わって三王山にて撮影。八王子の大将格は八日町伊勢七こと大野七左衛門(嘉永4年生れ)。
日露戦争の凱旋門(八日町)
日露戦争の凱旋門(八日町)
明治30年、八王子大火。明治31年、人口21,498人。
写真は、八日町の日露戦争の凱旋門。戦争中は和菓子の売上は減少し、特に明治37年は戦前の6割になった店もでた。それに比べ軍用のビスケット、乾パンを作る業者は5倍から8倍と輸出高の大飛躍をとげている。<昭和35年刊日本洋菓子史より>
八王子市和菓子商組合発足当時の菓子の定価表
八王子市和菓子商組合発足当時の菓子の定価表
明治41年6月、八王子市和菓子商組合発足当時の菓子の定価表。組合員数は43名。
もち、赤飯の加工料の単位が1斗(約14キロ)単位であることは、もち米が食生活の中で現在より大きな位置をしめていたと考えられる。<定価表は青木万年堂所蔵>
 なお、発起人は次の6名である。牧野萬次郎、斉藤稲吉、青木清兵衛、楢本長五郎、木崎和三郎、小林萬蔵。

大正時代

①大正2年、横山町の万年屋(現青木万年堂)前を通る横山一丁目の屋台。
②大正5年、お十夜の頃の八幡町・よろづ屋
③大正初期の八日町・元木屋。大正3年、町民の富力充実し人口も増え、八王子町会は決議により上司に対し、市制施行の希望を内申。八王子菓子組合も、大正5年1月、20条よりなる組合規約をもうけ、活動期に入る。組合員数61名
④大正6年10月、八王子市制祝賀の頃。八日町より横山町を望む八王子の街並み。世帯数6,904戸。人口40,733人。 八王子商業会議所主催記念みやげ品品評会もあり、桑都煎餅、自然薯羊羹、高尾羊羹、御国の宝、苺飴の5品が雪印賞を受賞。出品人60名、点数184点で、工芸品、化粧品、絵葉書なども含まれていた。
大正末、天神町・伊藤製菓中島屋
大正末、天神町・伊藤製菓中島屋
大正末、天神町・伊藤製菓中島屋の店頭。中央の伊藤久蔵は、太平洋戦争中組合の理事として、原料の正しい配分など正論をとなえた。

昭和時代

昭和8年頃の追分町・いなげや
昭和8年頃の追分町・いなげや
昭和8年頃の追分町・いなげや
昔、西より八王子にはいる旅人は、まず追分の稲毛屋でひと休み、馬にも水を与えたという。
昭和3年頃、高尾の有喜堂本店
昭和3年頃、高尾の有喜堂本店
昭和3年頃、高尾の有喜堂本店
「高尾山は関東第一の霊山にして四季共に登山者多く、ことに夏は滝、秋は紅葉に名高い。今よりおよそ150年前、現八王子八日町に大野七左衛門という者あり、山の名をとって高尾煎餅なるものを製造し、みやげ品として売り出した」という(大正15年・市役所刊「八王子」より)。
 有喜堂は、明治20年、高尾山薬王院有喜寺6代目の御前、志賀照林にすすめられ、寺の供物の製造とふもとでお札を出す役を受け持ったのが店の起源である。
昭和9年、大横町・伊勢屋
昭和9年、大横町・伊勢屋
昭和9年、大横町・伊勢屋開店7周年記念の売り出し風景。
昭和2年、大恐慌おこる。この年伊勢屋開店。お客様には大衆価格で製品を売り、使用人には情をかけ、不況下にも繁昌。まんじゅう、大福など1ヶ1銭。店主・武石鉄五郎は、組合の重鎮として最後まで活躍した。
キャラメル王森永太一郎、八王子訪問
キャラメル王森永太一郎、八王子訪問
昭和6年、キャラメル王森永太一郎の八王子訪問。右隣の建物は、昭和5年までの市役所。写真の幼児は後のよろづ屋店主の小林直之。
この頃、菓子業界の雄森永製菓も、かってない経営危機に陥り、翁自ら協力店を訪問し、森永製品のイメージアップをはかったのかも知れない。
昭和6年9月の満州事変を底として、森永製菓は昭和12年のピークまで、売上は上昇の一途をたどった。
昭和10年の横山町
昭和10年の横山町
昭和10年横山町。元八王子大丸の付近を通る屋台。<八日町・町田園提供>
昭和11年、第12回オリンピック大会(昭和15年)を東京開催と決定(昭和13年日華事変拡大にともない返上)。
昭和12年、市、商工会議所で観光地の宣伝と、みやげ物の開発に熱意。組合共同で青竹半切りにつめた1本10銭の“御召羊羹”を制作。この年の7月に日華事変がはじまり、このみやげ物は不発に終わる。観光立市、重工業招致を両立させる八王子の夢は、一瞬のうちに消え去る。
昭和15年7月31日、戦前最後ともいえる、台町・篠崎花月堂の富士浅間神社のだんご祭りの盛況。
昭和15年4月、米・砂糖などに切符制採用。この頃、菓子商組合は、業種・地区を広げて、八王子南多摩菓子工業組合を創立(当初171名)。
昭和19年7月、東京都菓子工業統制組合創立にともない、組合を解散。この頃より、生菓子は作れず、配給用乾菓子だけの製造となる。
 昭和20年、八王子市は空襲され、終戦。

昭和~戦後~

戦後は昭和22年頃設立の、東京多摩甘味飲食商業協同組と力をあわせて事業をおこなう。
昭和27年、砂糖・小麦粉の統制撤廃にともない、4月の組合を脱退。6月、東京多摩和生菓子商工業組合を設立。
昭和32年、松姫もなか誕生。銘菓、商標登録に関心が高まる。戦後、八王子はじめてのみやげ物品評会。
昭和41年、葵千人誕生。組合の青年部ともいえる八和会発足。
昭和51年、陣場栗など、一粒栗の入った焼菓子好評。
昭和52年10月、組合創立70周年を記念して、八王子大丸で、八王子和菓子博覧会を開催。
①横山町・青木万年堂  ②八幡町よろづ屋  ③旭町・松姫もなか本舗(昭和30年代)  ④横山町・もちとし  ⑤千人町・旭園  ⑥八和会・八王子祭り初参加(昭和52年・会長大久保幸明)<br><br>(文中敬称略)
①横山町・青木万年堂  ②八幡町よろづ屋  ③旭町・松姫もなか本舗(昭和30年代)  ④横山町・もちとし  ⑤千人町・旭園  ⑥八和会・八王子祭り初参加(昭和52年・会長大久保幸明)

(文中敬称略)

【文献】八王子・写真でつづる「まんじゅう屋物語」 1977年10月6日発行
発行/八王子和菓子協同組合  編集・小林直行